思い出
特別お題「今だから話せること」
皆さんは救急車に乗ったことはありますか?
私はあります。(決して自慢になることではありませんが)
そしてその経験が、友人の大切さや感謝の気持ちを感じることができました。
当時、私は中学3年生で文化祭のダンスに出場するため友達と練習をする日々が続いていました。
その時に流行っていた、ウォーターボーイズを陸上で挑戦するというなんともシュールなダンスでしたが、当時は仲のいいメンバー12人集めて何とか形になっていました。
一部のメンバーはそこそこ運動神経がよかったため、一人ひとり注目演出を考え、
運動が苦手な人は前転、できる人は側転やロンダート、ハンドスプリング(前方倒立回転飛び)など、ここぞとばかりにダンスの構成に入れてみました。
私も当時はバリバリ運動は得意としていたので、ハンドスプリングや前方宙返りなど部活の時間や空いた時間であっちこっちでくるくる回ってのを覚えています。
当時は好きな人に注目を浴びたいや人気者になりたい精神が少なからずあり、調子に乗っていました。
そんな日常を過ごしていたのですが、友人や先生、親に迷惑をかける事態が起こりました。
それは、給食後のお昼休み中に仲のいい友達 Yくんと中央廊下で逆立ち勝負をしていた時のことです。どっちが長く逆立ちができるかという単純勝負をしていました。
※以下、記憶が途切れ途切れなので一部聞いた話も含まれます。
私が先に倒れ、そのあとにYくんが倒れました。
しかし倒れた場所が悪く、私の上に、ちょうど頸動脈にのってしまったのです。
その後、泡を吐いて痙攣、嘔吐
薄れゆく意識の中で、体育の先生が担架だー!
って声が聞こえ、一度意識が途絶えました。
おそらく保健室で一度目が覚めたのですが、起きようとする私に、いいからまだ横になってなさいと言われ、再び気を失いました。
次に目が覚めた時は、救急車の中。鳴り響くサイレンが頭に響いて、横にいた先生に何があったのか聞きたかったのですが、「今日の給食はパンと…でしたか?」と何故か聞いてしまいました。現状が把握できておらず、日付など
確認した覚えがあります。記憶喪失にはなってなかったようです。
病院につき、気分も落ち着き、担任の先生と話す時間がありました。担任の先生は持病もちでうまく話すことができない方でしたが、おもしろい話や真っ直ぐな思いを伝えてくれる大好きな先生でした。そんな先生に迷惑をかけてしまい、素直な気持ちでごめんなさいと謝った記憶があります。
本当に迷惑をかけてしまった。大変なことをしてしまったと本気で思っていました。
先生は怒ることなく良かったと言ってくれました。
そして、父が病院まで迎えにきてくれて、みんな心配してるからと、一度学校へ行くことになりました。
正直どんな顔して戻ればいいのか全然わかりませんでした。
むしろ、同級生たちは普通に勉強、部活しているものだと思ってました。
しかしそうではありませんでした。
到着後、私を発見した同級生たちが自分に気付き、泣きながら集まってきたのです。
もちろん一緒に逆立ちをしていたYくんもいました。Yくんはごめん。ごめんねと何度も言っていました。
謝るのは私の方なのに、、、。
私もYくんと友達全員に何度もごめんと謝りました。
友達が泣くほど大切に思われてたと気付かされ、心配かけ申し訳なさでいっぱいになりました。
帰宅後、Y君とお母さんがケーキを持ってきて体調大丈夫?とお見舞いに来てくれました。夜には全快していたので、元気な姿が見せられたとおもいます。ケーキはたくさんありましたが家族に食べてもらいました。
家族にも心配かけてごめんなさいと謝りました。
本当に謝ってばかりでした。
けど、父は生きてればそんなこと1度や2度あるから気にするなっ!まだまだ色々起きるからと教えてくれました。
当時15歳の自分は人生最大のアクシデントを味わったわけですが、人生の先輩である父にそう言われてまだただ人生は始まったばかりとその時に思ったのです。
そこからの人生は
自分を思ってくれる人を大切にしよう。
自分が思っている以上に周りの人は自分を思ってくれている。だから、自分の関わる人を大切にしよう。
何かアクシデント、辛いこと、乗り越えられないことが起こったら、まだまだ人生長い。その長い人生の事柄の一つなんだって思うことにしよう。そうすればどんなことだって乗り越えられる。
と思って精一杯生きています。
当時の担任の先生は十数年前、私たちが成人式を迎える前に亡くなりました。
ここでは深く語りませんが本当にお世話になった先生です。
今では当時の先生くらいの年齢になってます。
今年32歳の二児のパパ。
関わってきた人から学ぶことが多くありました。
この学びをバトンとして我が子につなぎたいと思います。